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64とワースト3位。また中川が1月のキャンプ前に腰痛を発症して以降全休した中継ぎ陣も37セーブと新人最多タイ記録を達成した大勢は9回に固まったものの、大勢に繋ぐ為の8回を担うセットアッパーが固まらず8回の78失点はイニング別で最多でありリーグワースト。加えて打撃陣も新外国人のアダム・ウォーカーとポランコ[注 31]、既存戦力から岡本、丸、中田の合わせて5人が20本塁打以上をマークし15年ぶり[注 32]の20発クインテットが誕生する等本塁打数こそリーグ2位の163本をマークしたもののチーム打率は. 242でリーグワーストで3年連続で規定打席到達者の3割バッターが不在(最も打率を稼いだのが吉川尚輝の. 277)。9月18日のDeNA戦に敗れ、2年連続のV逸と1988年に開場して以降史上初の東京ドームで2年連続の負け越しが、9月25日の中日戦にも敗れ、05年、06年以来球団史上2回目の2年連続シーズン負け越しが[注 33]、10月1日のDeNA戦に敗れた事で5年ぶりに(02年に原が監督を務めてからは史上初めて)クライマックスシリーズ出場権を失ってしまった。またここ2年は40個台(2020年は43個、2021年は45個)にとどめていたエラーが6年ぶりの80個超えとなる82個で86個の阪神に次いでリーグワースト2位。589失点と523自責点に加え、失点と自責点の差は66でいずれも12球団ワーストと投手野手の責任に関係なく失点を重ねた。また、チーム打率最下位と防御率最下位のダブルとなるのは2005年以来17年ぶりとなった。中田が8月11日に岡本に代わって第91代4番打者に起用される等復活を遂げ、ゴールデングラブ賞(一塁手部門)をセパ両リーグで受賞した一方で、2015年以来7年ぶりにベストナイン選出者がいなかった。 ドラフト会議ではこの年の夏の甲子園で52年ぶりのベスト8に進出した高松商業高校の浅野翔吾を1位で指名。阪神と競合したが、原が引き当て交渉権を獲得した。なお、高校生野手の1位指名は14年の岡本以来8年ぶり。外野手として活躍した松井も1992年にドラフト1位で指名されたが、松井の高校時代は三塁手でプロ入りしてから外野手になったので高校生外野手のドラフト1位は球団史上初である。11月2日、丸をFAで獲得した事による人的補償で広島に放出した長野久義が無償トレードで5年ぶりに復帰。11月11日には福岡ソフトバンクを退団していた松田宣浩を支配下選手として契約することを発表した[87]。12月9日に行われた2022年度現役ドラフトにより、楽天のオコエ瑠偉の入団が決まり、戸根千明が広島に移籍すると発表された[88]。 2023年 2020年以来3年ぶりにスローガンとして「奪回」を掲げ、優勝の奪回を誓うシーズンとなった。 所属選手・監督・コーチ[編集] チーム成績、記録[編集] チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。 試合、勝敗、勝率に関する記録[編集] 1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す 優勝 47回 ※日本プロ野球記録 1リーグ時代 9回(1936年秋 - 1937年春、1938年秋 - 1943年、1949年) 2リーグ制後 38回(1951年 - 1953年、1955年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1976年 - 1977年、1981年、1983年、1987年、1989年 - 1990年、1994年、1996年、2000年、2002年、2007年 - 2009年、2012年 - 2014年、2019年 - 2020年) 日本一 22回 ※日本プロ野球記録 1951 1952 1953 1955 1961 1963 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1981 1989 1994 2000 2002 2009 2012 セ・パ交流戦優勝 2回 (2012年、2014年) クライマックスシリーズ優勝 5回 (2008年、2009年、2012年、2013年、2019年) アジアシリーズ優勝 1回 (2012年) 日韓クラブチャンピオンシップ[注 34]優勝 1回 (2009年) 連続優勝最長記録・連続レギュラーシーズン最高勝率最長記録 9年 ※日本プロ野球記録 (1965年 - 1973年) Aクラス 78回 1リーグ時代 14回(1936年秋 - 1946年、1948年 - 1949年) 2リーグ制後 64回(1950年 - 1961年、1963年 - 1974年、1976年 - 1978年、1980年 - 1990年、1992年 - 1996年、1998年 - 2004年、2007年 - 2016年、2018年 - 2021年) Bクラス 10回 1リーグ時代 1回(1947年) 2リーグ制後 9回(1962年、1975年、1979年、1991年、1997年、2005年 - 2006年、2017年、2022年) 最下位は1975年の1回のみ。 連続Aクラス入り最長記録 14年(1948年 - 1961年) 連続Bクラス最長記録 2年(2005年 - 2006年) シーズン最多勝利 92勝(1955年) シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日 - 8月3日)※1引き分けを挟む シーズン最多敗戦 80敗(2005年) シーズン最多連敗 13連敗(2017年5月25日 - 6月8日) シーズン最多引分 20分(2021年)[注 35] シーズン最高勝率.
5ゲーム差の2位となる。また松本匡史が初の盗塁王となる。 1983年 松本匡史が2年連続盗塁王(このときの盗塁76はセ・リーグ記録)に輝き、原辰徳が打点王(103打点)、2年目の槙原寛己が新人王を獲得するなどしてリーグ優勝するが、日本シリーズでは西武ライオンズと対戦、3勝4敗で敗れる。 この時期投手陣の中心となったのは江川卓、西本聖、定岡正二である。西本は高卒ドラフト外で入団したものの、持ち前の反骨心で同年齢の定岡、大学から米留学経て入団した江川と肩を並べるまでに成長した。藤田の監督在任時の成績は、江川55勝(20-19-16)、西本48勝(18-15-15)、定岡33勝(11-15-7)の成績を残している。 王監督時代[編集] 1984年-1988年 藤田政権の「トロイカ体制」で助監督を務めていた王貞治が監督として指揮を執るが、1984年・3位→1985年・3位→1986年・2位(優勝した広島とゲーム差なし、勝率3厘差)→1987年・優勝→1988年・2位と1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。1985年のドラフトでは巨人を熱望していた清原和博ではなく、同じPL学園のエースで大学進学といわれた桑田真澄を指名、入団となった。1987年には二軍がこの年から始まったファーム日本選手権の初代日本一に輝く。1988年には本拠地が後楽園球場から東京ドームへと変わったが、吉村禎章やウォーレン・クロマティのリタイアが響いて結果は2位、優勝した中日に12ゲーム差をつけられる。クロマティに代わって新入団の呂明賜が一時ブレイクした。王はこの年限りで監督を引責辞任。オフに西本聖は中日・中尾孝義と2対1のトレード。 第2次藤田監督時代[編集] 1989年 藤田元司が監督に復帰。原が外野へコンバート、内野は駒田、岡崎、川相が定着。中日から移籍の中尾のリードも冴えて、斎藤雅樹(20勝・防御率1. 62)、桑田真澄(17勝・防御率2.
5ゲーム差まで追いつめたものの、8月7日の広島戦で7-6とリードしていた9回に澤村が新井にサヨナラ打を打たれて同一カード3連勝のチャンスを潰すと、広島が持ち直して再び差を広げ始めた。8月24日に広島との直接対決で敗れた事で広島にマジックが点灯し、その後も波に乗れず、9月10日の対広島戦で敗戦したことにより広島のリーグ優勝が決定、2年連続V逸が確定した。その後はDeNAとの2位争いを制し、シーズン2位が確定。坂本勇人が初の首位打者になり、菅野智之が2年連続で最優秀防御率と最多奪三振を獲得、澤村拓一がセーブ王になるもエース・菅野の勝利投手になる権利を3回も消滅させてしまったこともあり、2桁勝利を達成したのは田口麗斗のみだった。クライマックスシリーズでは、クライマックス初出場の3位・DeNAと対戦。しかし、1勝2敗で1stステージで敗退し、5年連続のファイナル出場が途絶えた。10月13日に足のスペシャリスト鈴木尚広が現役引退を発表した[70][71]。また、オフに総額30億円をかけた大補強を敢行。ソフトバンクから森福允彦、DeNAから山口俊、元楽天のケーシー・マギー、日本ハムから陽岱鋼、抑え候補の新外国人としてアルキメデス・カミネロを獲得した。 2017年 開幕5連勝と好スタートを切り、序盤は阪神と2位を争った。しかし、この間に昨シーズンオフにFAで獲得した山口俊、陽岱鋼らFA補強組が不振や故障で相次いで離脱。5月中旬以降は負けが込みだし、5月25日の対阪神戦(甲子園)に敗れるとその後も広島に3連敗、4連敗継続中に迎えた交流戦では楽天、オリックス、西武相手に同一カード3連敗を喫し、球団史上ワースト記録となる13連敗を喫した。6月、球団OB初のGMとして、鹿取義隆が就任した。7月中旬に山口俊が傷害事件を起こし、シーズン終了までの出場停止・罰金・減俸という処分が科せられた。また、前半戦終了後、二軍監督の斎藤雅樹が一軍投手コーチ(ベンチ)に、ベンチ担当の尾花高夫がブルペン担当、ブルペン担当の田畑一也が前半戦から苦戦している広島専従スコアラー、後任の二軍監督に巡回打撃コーチの内田順三が就任することを発表した。後半戦以降は二塁にマギーをコンバートする攻撃重視の策が功を奏し、DeNAとの3位争いを演じるまで持ち直した。9月26日の対ヤクルト戦で中井大介が岩橋慶侍から本塁打を放ち、これが球団通算1万号本塁打となった[11]。10月1日の試合で敗れると、同日にDeNAが勝った為、シーズン4位が確定。30億円かけた補強も実らず、Bクラスに終わった。Bクラスになるのは球団史上11年ぶりで、2007年に導入されたCSへの出場を球団史上初めて逃した。カード別の対戦成績では広島に7勝18敗と大きく負け越した以外、他の4球団には勝ち越したが、同一リーグの4球団に勝ち越しながらBクラスに転落したのはNPB史上初。投手陣は先発が菅野、マイコラス、田口だけで27の貯金を作った先発陣とは対照的に、中継ぎ陣は2006年の62を下回る57ホールドと、球団史上ワースト(12球団断トツのワーストで11位のヤクルトは85ホールド)だった。27ホールドのマシソンが安定した一方でマシソンに続くのが10ホールドの西村健太朗で、昨シーズン19ホールドの山口鉄也が3ホールド、新戦力の森福がソフトバンク最後の年は16ホールドだったのが6ホールドと戦力にならず、勝ちパターンを確立出来なかったのが誤算だった。打撃陣は球団史上ワーストの129併殺を記録し、ワースト10にマギー(2位・20個)、長野(4位・17個)、坂本(6位・16個)、村田(7位・15個)といった主力選手がランクインしたことに代表される様に、攻撃もちぐはぐであと一本が出ず、1点差のゲームを27試合も落とした一方でものにしたのはセリーグワーストの13勝。接戦の弱さを露呈する結果となった。シーズン後若返りを図る一環として村田に戦力外通告を行い、片岡、相川、松本哲、藤村らが現役を引退。先発の一角を担っていたマイコラスもメジャー復帰が決まり、退団した。 2018年 球団ロゴを刷新し、中央に「G」、左右に創設年の「1934」、下部に本拠地の「TOKYO」を配置した。 主な補強選手として、西武からFA宣言した野上亮磨、前中日のアレックス・ゲレーロ、マイコラスに代わる先発候補として期待される新外国人テイラー・ヤングマンを獲得。さらに、3月上旬には上原浩治が10年ぶりに巨人復帰。3月中旬には野球賭博問題に関与し、失格処分のち育成選手となっていた高木京介を2年ぶり支配下登録することが決まった。 開幕から若手の岡本和真や吉川尚輝がスタメンに定着するなど若手が活躍した打線の好調で上位戦線につけた。しかし、6月に篠原慎平、河野元貴がInstagramに不適切な動画を投稿し、出場停止になり、さらに7月には柿澤貴裕がチームメイトの野球道具・ユニフォームを盗み転売していたことが判明し、契約解除となるなど、前年に続き、不祥事も相次いだ。一連の不祥事の責任を取る形でオーナーの老川祥一が辞任し、後任として山口寿一が新オーナーに就任[72]。7月以降は育成から這い上がったC.
769(1938年秋)(2リーグ制以降. 731 1951年) シーズン最低勝率. 382(1975年) 通算試合 10735試合(日本プロ野球記録、2リーグ制以降9514試合) 通算勝利 6127勝(日本プロ野球記録、2リーグ制以降5344勝) 通算敗戦 4398敗(2リーグ制以降3988敗) 通算引分 353引き分け(2リーグ制以降325引き分け) 通算勝率. 582(日本プロ野球記録・2リーグ制以降. 573) 最小ゲーム差 0. 0ゲーム(1974年、1986年) 最大ゲーム差 27. 0ゲーム(1975年) 最長試合時間 6時間21分(2015年8月21日対広島東洋カープ) 最短試合時間 1時間14分(1951年3月31日対大阪タイガース) チーム打撃記録[編集] 通算本塁打 10647本(日本プロ野球記録、2リーグ制以降10208本) シーズン記録 シーズン最多得点 738得点(2004年) シーズン最多安打 1375本(2009年) シーズン最多二塁打 221本(1953年) シーズン最多三塁打 57本(1946年) シーズン最多本塁打 259本(2004年、日本プロ野球記録) シーズン最多塁打 2340本(2004年、日本プロ野球記録) シーズン最少本塁打 1本(1936年秋) シーズン最多打点 719打点(2004年) シーズン最多盗塁 212盗塁(1950年) シーズン最多犠打 144犠打(1990年) シーズン最多犠飛 43犠飛(1978年) シーズン最多四死球 591個(1950年、日本プロ野球記録) シーズン最多三振 1083三振(2004年) シーズン最高打率. 292(1952年) シーズン最低打率. 208(1943年)(2リーグ制以降.
5と大きく引き伸ばして折り返す。6月には日本ハムの鍵谷陽平、藤岡貴裕と吉川光夫、宇佐見真吾の2体2の交換トレードと新外国人としてルビー・デラロサを、7月には楽天の古川侑利を和田恋との交換トレードで獲得した。その後7月下旬から8月上旬にかけ大型連敗があり、2位DeNAに最大10. 5あったゲーム差を0. 5まで迫られたが、6月18日以降は首位から陥落することなく9月21日、対DeNA戦(第24回戦)にて3対2で勝利し、5年ぶり37回目のリーグ優勝を果たした[76]。 クライマックスシリーズでは3位の阪神と対戦。アドバンテージを含む4勝1敗で6年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズでは、ソフトバンクと前身のダイエー時代以来の19年ぶりに対戦するも投手陣が崩れ、野手陣も2番・坂本が5三振、3番・丸が6三振で何れも打率は. 077。4番・岡本も. 188で3三振と振るわず、1勝も出来ずに1990年の西武戦以来となるストレート4連敗で敗退した。 リーグ優勝直後に阿部が引退を表明(後に二軍監督に就任)し、マシソンも引退を表明した[注 23]。オフには山口が球団初のポスティングシステムを利用し、トロント・ブルージェイズに移籍した[77]。 この年は令和最初のペナントレースだったので、「令和最初のセ・リーグ優勝球団」となった。 2020年 シーズン前、ワシントン・ナショナルズで世界一に貢献した現役大リーガーのジェラルド・パーラ、シカゴ・ホワイトソックスのチアゴ・ビエイラ、SKワイバーンズのエンジェル・サンチェスを獲得した。 新型コロナウイルスの影響により、約3か月遅れとなった6月19日の開幕戦では吉川尚の逆転本塁打で3-2で逆転勝ちし、プロ野球史上初の球団通算6000勝を達成したのに続き[78]、翌日は6回まで3-1と接戦の状況から7回に打者一巡の猛攻で一挙8点を奪い連勝、3戦目も先制を許しながら4回に5点を奪って逆転し7-1で勝利。過去8度あった阪神との開幕カード3連戦で球団史上初のスウィープに成功(同一カード3連勝を達成)した。6月と7月にいずれも楽天とのトレードでゼラス・ウィーラーと高梨雄平を、9月にロッテとのトレードで香月一也を獲得した[79]。開幕から快調に走り、7月に一度ヤクルトに首位を奪われるもすぐに奪い返し、その後は一度も首位を譲る事はなく、9月11日のヤクルト戦を2-1で勝利した事で原は川上を抜いて球団最多となる監督通算1067勝を、9月15日の阪神戦では菅野がヴィクトル・スタルヒン以来82年ぶりの球団開幕投手での開幕11連勝を達成。9.
5ゲーム差をはね返してリーグ優勝を成し遂げた。「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。日本シリーズではオリックス・ブルーウェーブと対戦するも、1勝4敗で敗れた。オフに岡崎郁・長嶋一茂が戦力外通告を受け、引退した。 1997年 西武から清原和博がFA権を行使して入団した。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強打者コンビ「MK砲」として期待された。この際、清原に押し出されるように落合が「長嶋監督を悩ませることはできない」と異例の会見を開いて日本ハムに移籍。ロッテを自由契約となったエリック・ヒルマンを獲得し95年の30億円を超える33億円補強を行ったが、開幕戦で3年連続開幕戦完封勝利をあげていた斎藤がノックアウトされたのをきっかけにヒルマンを含め主力選手に故障者・不調者が続出。桑田が復活しカムバック賞は逃したが再起、松井が本塁打王争いを繰り広げていたが一向にチームが浮上できず夏場まで最下位に沈み大苦戦した。優勝争いから脱落してから調子を上げたが、最終順位は1991年以来6年ぶりのBクラスとなる4位、第2次長嶋監督時代では2度目の借金でのシーズンを終了した。同年オフにはドラフト1順目で高橋由伸が入団、宮本和知が現役を引退した。 1998年 開幕戦、前年にカムバックした桑田が勝ち投手になりスタートダッシュに成功。松井、ルーキー高橋由の活躍もあり横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ち頭趙成珉がオールスターゲームで右肘を故障。さらにガルベスが7月31日の対阪神戦(阪神甲子園球場)において審判に対しボールを投げつけるという暴挙でチームから離脱するなどアクシデントが響き、チームは3位に終わった。松井が2年連続で1本差で逃した本塁打王を獲得し、打点王、最高出塁率のタイトルも獲得。吉村禎章・川口が現役を引退した。 1999年 村田真一や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、20勝を挙げた新人の上原浩治や前年西武を解雇されたドミンゴ・マルティネスをシーズン途中に獲得し清原の穴を埋める活躍もあり2位となったがチームの貯金は15個。上原がこの年挙げた貯金が16と上原以外の投手陣に課題の残るシーズンとなった。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍した。 2000年 20世紀最後の年、FA宣言をしていたダイエーの工藤公康と広島の江藤智、さらに阪神のダレル・メイを獲得するなど大補強を敢行。長嶋監督は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松井が4番として定着、5番にマルティネス・清原、6番に高橋由を擁した打線はシーズンで投打ともに他を圧倒。投手陣も工藤・メイ・ルーキーの高橋尚成の左3枚がしっかりローテーションを守る。9月24日の対中日戦(東京ドーム)では、0-4で迎えた9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡智宏がサヨナラ本塁打を放ち4年ぶりのリーグ優勝を劇的に決めた。結果的には2位中日に8ゲーム差をつけた。日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9時代の主軸を担った王が1995年から率いるダイエーで、2連敗からのスタートだったがその後シーズンで不本意な結果だった上原・斎藤の奮闘もあり4連勝。4勝2敗で19回目の日本一を達成し20世紀の最後を締めた。 2001年 シーズン終盤までヤクルトと優勝を争ったが投手陣の不振で2位に終わる。同年限りで長嶋監督は勇退し、「終身名誉監督」に就任した。それと同時に槙原寛己、斎藤雅樹両投手そして村田真一捕手が引退した。長嶋監督の後任として、ヘッドコーチの原辰徳が就任した。 第1次原監督時代[編集] 2002年 原ヘッドコーチが監督に就任、原監督と鹿取義隆ヘッドコーチは投手陣を立て直し不振で苦しんでいた上原、桑田が復活。故障がちで一軍に常時いられなかった河原を抑えに抜擢し年間通して活躍。松井が50本塁打を放ち打線を牽引。1年目でセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズでも西武を相手に球団史上初でシリーズとして12年ぶりの4連勝のストレート勝ちで日本一に輝いた。シーズンオフに松井がFA権を行使してメジャーリーグ・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。 2003年 松井に代わる大砲としてヤクルトからロベルト・ペタジーニを獲得。しかし、原監督は守備位置の問題を解決できず、鹿取ヘッドコーチは一任されていた投手陣が崩壊し整備できずチームは3位に終わった。6月27日には球団史上初めて6月での自力優勝消滅を記録、シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神に15.
73(日本記録)を記録した藤本英雄、職業野球契約選手第1号であった三原修、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王(1965年にプロ野球実行委員会で認定)を記録した中島治康らを擁して第1次黄金時代を築いた。 戦後[編集] 第一次巨人黄金時代の打の主力3人。左から川上哲治、千葉茂、青田昇 1946年のリーグ戦再開より参加、この年はグレートリングと1ゲーム差の2位に終わる(松竹ロビンス#没収試合第1号も参照)。1947年には読売新聞社が経営に当たることとなり[注 3]、球団名を東京読売巨人軍(とうきょうよみうりきょじんぐん)に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど、再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、監督・三原脩や「赤バット」の川上哲治、千葉茂、青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰、また1948年オフには南海の別所昭(巨人時代の登録名は別所毅彦)を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の1949年には戦後初優勝を飾った。1947年6月23日に黒沢俊夫が死去、黒沢の背番号4と、戦死した沢村栄治の背番号14は日本プロ野球界初の永久欠番となった。1949年シーズンオフ、日本プロ野球はセントラル・リーグ、パシフィック・リーグに分裂、2リーグ制となり、巨人はセ・リーグに所属することになる。 水原監督時代[編集] 1950年 復帰した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目は8球団中3位。 1951年 シーズン途中に来日し、入団した与那嶺要の活躍もあって2リーグ分裂後初優勝。 1952年 8月8日、対広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の公式戦通算1000勝。 1953年 初めての海外キャンプをサンタマリアで行う。このシーズンは、開幕から1回も首位から転落することなくリーグ3連覇を達成。シーズンを通しての首位完全独走で優勝したのは球団史上唯一の記録である。日本シリーズでは、1リーグ時代からの宿敵・南海ホークスを3年連続で下し、日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。 1954年 杉下茂擁する中日ドラゴンズが優勝し、2位となる。 1955年 リーグ優勝。日本シリーズでは南海との対戦となり、1勝3敗から3連勝。4勝3敗で逆転日本一を達成する。この頃から第2次黄金時代を支えた千葉茂、川上哲治らに衰えが目立ち始め、水原は新旧交代をしなければならなくなった。 1956年 リーグ優勝を果たし、日本シリーズでは水原茂と入れ替わりに巨人を退団した三原脩が監督で率いる西鉄ライオンズとの対決となる。以後日本シリーズでは、3年連続で巨人は西鉄との対決となり、両者の戦いは「巌流島の決戦」とマスコミに喧伝された。 1958年 立教大学から長嶋茂雄が入団し、初年度から3割29本37盗塁の活躍を見せる。日本シリーズでは、第1戦から3連勝するも、第4戦から稲尾和久の力投などで4連敗を喫し、3勝4敗の逆転で3年連続で西鉄に敗退。この年限りで川上哲治が現役引退している[13]。 1959年 6月25日の阪神11回戦(後楽園)はプロ野球史上初めての天覧試合となった。この試合で王・長嶋がはじめて2人ともホームランを打ち(ONアベック弾第1号)、9回ウラには長嶋が阪神・村山実からこの日2本目となるサヨナラホームランを放ち、5-4で勝利を収めた。成績はリーグ優勝を果たし4連覇。日本シリーズでは南海ホークスと対戦するが、南海のエース・杉浦忠の前に打線が沈黙、4連敗のストレート負けで敗退。 1960年 三原脩が当時6年連続で最下位だった大洋ホエールズの監督に就任し、再び「巌流島の対決」と呼ばれる。大洋は三原の手腕によって巨人と優勝争いを演じ、ついに巨人を破ってリーグ優勝。巨人は大洋と4.
38(1943年) シーズン最少ホールド 57(2017年) ゲーム最多被安打 25本(1994年9月10日対広島東洋カープ) ゲーム最多被本塁打 8本(1949年4月26日対大映スターズ) ゲーム最多与四死球 16個(1985年7月30日対広島東洋カープ) ゲーム最多奪三振 16個(1967年6月7日対大洋ホエールズ、1994年8月13日対阪神タイガース) ゲーム最多失点 19点(1994年9月10日対広島東洋カープ、2003年6月11日対ヤクルトスワローズ、2003年9月16日対中日ドラゴンズ) イニング最多被安打 10本(1994, 1997, 1998, 2003に4度) イニング最多被本塁打 3本(多数) イニング最多与四死球 10個(1978年7月6日対広島東洋カープ) イニング最多奪三振 4個(1997年7月4日対阪神タイガース3回、2005年4月6日対横浜ベイスターズ6回) イニング最多失点 12点(2003年9月16日対中日ドラゴンズ6回) 最多連続記録 最多連続試合完封勝利 4試合(9度、日本記録) 最多連続イニング無失点 50イニング(1966年6月15日 - 6月22日) 最多連続試合被本塁打 18試合(2001年8月11日 - 9月2日) 歴代本拠地[編集] 後楽園球場(写真右下)東京ドーム(写真中央)後楽園競輪場(左写真中央)の跡地に東京ドームは建設された。 1937年 - 1987年 - 後楽園球場 1937年の後楽園球場の開場より実質的な本拠地として使われているが、フランチャイズ制導入による本拠地としての指定は2リーグ分裂後の1952年である。 1988年 - 現在 - 東京ドーム(都市対抗野球が行われる際には別の球場で主催試合を行う) 二軍の本拠地 巨人軍多摩川グラウンド(1955年 - 1985年) 多摩川緑地広場内(東京都大田区田園調布) 読売ジャイアンツ球場(1986年 - 現在) よみうりランド内(神奈川県川崎市多摩区) 歴代監督[編集] ※太字はリーグ優勝、◎は日本一 代 背番号 氏名 就任 退任 東京巨人軍 1 三宅大輔[89] 1934年 1935年 2 30 浅沼誉夫 1936年 3 22、30 藤本定義 1942年 4 中島治康[注 36] 1943年 5 藤本英雄[注 37] 1944年 1946年 6 中島治康(第2次)[注 38] 1947年 7 31 三原修[注 39] 1949年 8 水原茂◎[注 40] 9 16、77 川上哲治◎ 10 90 長嶋茂雄 11 73 藤田元司◎[注 41] 12 王貞治 1984年 1988年 13 藤田元司(第2次)◎ 14 33 長嶋茂雄(第2次)◎ 3[注 42] 15 88 原辰徳◎ 16 堀内恒夫 17 原辰徳(第2次)◎[注 43] 18 24 高橋由伸 19 83 原辰徳(第3次) 終身名誉監督[編集] 現在、プロ野球界で名誉監督(長嶋茂雄は終身名誉監督)の名誉称号を贈られたのは全球団で長嶋茂雄と野村克也(元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督)のみである[注 44]。 役員[編集] 役職 役員名 取締役オーナー 山口壽一 取締役オーナー代行 松田昇 代表取締役会長 石井一夫 代表取締役社長(編成本部長) 今村司 専務取締役終身名誉監督 取締役連盟担当 山岸均 取締役 大久保好男 常勤監査役 村岡彰敏 監査役 真砂靖 執行役員球団副代表編成担当 大塚淳弘 永久欠番[編集] 1:王貞治(1989年 - ) 本塁打世界新記録(868本)の功績を称えて決定。巨人では選手、助監督そして監督と通算30年使用していた。 3:長嶋茂雄(1974年 - ) 第二次監督時代の2000年から2年間復活した。 4:黒沢俊夫(1947年 - ) 現役中に腸チフスで死去。後述の沢村と共に日本プロ野球初の永久欠番となった。 14:沢村栄治(1947年 - ) 太平洋戦争で戦死。戦後今泉勝義と坂本茂がつけていたが、上記黒沢と同時に永久欠番となった。なお2014年3月10日、沢村の故郷である三重県伊勢市の伊勢市倉田山公園野球場で65年ぶりに行われた阪神とのオープン戦において、原辰徳監督はじめ全選手が永久欠番「14」をつけ、阪神はOBで沢村と同郷の西村幸生投手の背番号「19」を全選手がつけて試合が行われた。 16:川上哲治(1965年 - ) 引退後も着用していたが、1965年1月の野球殿堂入り決定後に永久欠番になった。当時監督だった川上はこの年から背番号を「77」に変更。 34:金田正一(1970年 - ) 球界初の通算400勝の功績を称え制定。 なお、2006年シーズン開幕よりこれら永久欠番の選手のユニフォームをかたどった(背番号のみで選手名ローマ字表記は無し)像を東京ドームの外野スタンド後方部の支柱部に設置。除幕式が同年開幕戦に行われ、本人や遺族等が招かれた[注 45]。 沢村栄治賞受賞者[編集] 1947年に沢村栄治賞が制定後、巨人では14人が受賞(巨人の生え抜き選手では無いのは別所毅彦のみである)。中でも斎藤雅樹が史上4人目の3回受賞し、プロ野球最多タイ記録となっている。巨人の投手で複数回受賞しているのは5人(他球団でも受賞している投手も含めると7人)いる。 中尾碩志 :1回(1948年) 藤本英雄 :1回(1949年) 大友工 :1回(1953年) 別所毅彦 :1回(1955年) ※1947年の南海時代も含めると2回。 堀本律雄 :1回(1960年) 伊藤芳明 :1回(1963年) 堀内恒夫 :2回(1966年、1972年) 高橋一三 :2回(1969年、1973年) 小林繁 :1回(1977年) ※1979年の阪神タイガース時代も含めると2回。 西本聖 :1回(1981年) 桑田真澄 :1回(1987年) 斎藤雅樹 :3回(1989年、1995年、1996年) ※最多タイ記録 上原浩治 :2回(1999年、2002年) 菅野智之 :2回(2017年、2018年) 完全試合、ノーヒットノーラン達成投手[編集] 巨人ではこれまでに球団史上2人の投手が完全試合を、球団史上12人の投手が延べ15回(ポストシーズンも含める)ノーヒットノーランを達成している。また、継投によるノーヒットノーランを1回達成している。 完全試合達成投手 年月日 投手名 スコア 対戦相手 球場 1950/06/28 藤本英雄 4-0 西日本パイレーツ 青森市営 1994/05/18 槙原寛己 6-0 広島東洋カープ 福岡ドーム ノーヒットノーラン達成投手(レギュラーシーズン) 野球場 1936/09/25 沢村栄治 1-0 大阪タイガース 甲子園 1937/05/01 洲崎 1937/07/03 ヴィクトル・スタルヒン イーグルス 1939/11/03 中尾輝三 東京セネタース 後楽園 1940/07/06 名古屋金鯱軍 西宮 1941/07/16 3-0 名古屋軍 1943/05/22 1952/07/26 大友工 17-0 松竹ロビンス 大阪 1967/10/10 11-0 広島カープ 1968/05/16 城之内邦雄 16-0 大洋ホエールズ 1970/05/18 渡辺秀武 2-0 1976/04/18 加藤初 5-0 広島 2012/05/30 杉内俊哉 東北楽天ゴールデンイーグルス(セ・パ交流戦) 東京ドーム 2018/07/27 山口俊 中日ドラゴンズ ノーヒットノーラン達成投手(ポストシーズン) 2018/10/14 菅野智之 東京ヤクルトスワローズ(クライマックスシリーズ) 神宮 参考記録 備考 1971/09/06 菅原勝矢 ヤクルトアトムズ 7回表1死降雨コールドゲームのため。 2017/06/14 山口俊マシソンカミネロ 福岡ソフトバンクホークス(セ・パ交流戦) 継投によるノーヒットノーラン。 史上初のノーヒッター[編集] ノーヒットノーランの日本プロ野球第1号達成者は東京巨人軍から誕生した。巨人の当時の豪腕投手だった沢村栄治が1936年9月25日に甲子園で開いた秋季大阪1次リーグ戦・大阪タイガースとの対戦で達成した。 史上最多タイのノーヒッター[編集] 史上初のノーヒットノーランを達成した沢村は翌1937年5月1日に洲崎で開かれた春季戦・大阪タイガース戦で2回目、更に1940年7月6日に西宮で開かれた名古屋軍戦で3回目のノーヒットノーランを達成。これは戦後達成した外木場義郎(広島カープ→広島東洋カープ)と並ぶ日本プロ野球最多タイ記録である。 外国人史上初のノーヒッター[編集] 1937年7月3日のイーグルス(洲崎)との試合でヴィクトル・スタルヒンが外国人史上初のノーヒットノーランを達成している。 ポストシーズン史上初のノーヒッター[編集] 2018年10月14日、東京ヤクルトスワローズとのクライマックスシリーズファーストステージ第二戦(神宮)で菅野智之がノーヒットノーランを達成。これがクライマックスシリーズおよび日本シリーズを含むポストシーズン史上初の記録である。 史上初の完全試合[編集] 1936年の日本プロ野球発足時から存続している4球団の一つである巨人で完全試合を達成したのは2人だけである。日本プロ野球初の完全試合を決めたのは、藤本英雄。1950年6月28日、青森市営野球場で開催された西日本パイレーツとの一戦で自身2回目(戦前かつ1リーグ時代の1943年にも名古屋軍戦で達成)のノーヒットノーランを完全試合で飾った。日本プロ野球初の偉業でありながら、北海道遠征の帰路だったため試合を取材した記者が4人、カメラマンは1人もいなかったこともあって報道の扱いは小さく、また新聞も製紙事情からページを割くことができず、写真も掲載されなかった。 球団およびセ・リーグ最後の完全試合[編集] 2022年シーズン中時点でセ・リーグ最後の完全試合を達成したのが槙原寛己である。1994年5月18日福岡ドームでの広島東洋カープ戦において史上15人目、1978年の今井雄太郎(阪急ブレーブス)以来、平成時代唯一の完全試合を達成した(槙原寛己の完全試合)。この試合は球団創立から7000試合目の公式戦であった。また、上記のように球団で12人(ポストシーズンも含めると13人)のノーヒッターが誕生しているが、完全試合を達成しているのは藤本と槙原だけで、藤本の快挙から、44年振り、達成時の背番号は共に「17」だった。 ユニフォームの変遷[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索? : "読売ジャイアンツ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.
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5747となり、当時阪神が55勝41敗3引き分けで勝率. 572と勝率で上回った為、一時は「-0. 5」ゲームで4月1日以来の首位に浮上した。ところが、9月3日から組まれていた阪神との甲子園3連戦で1勝も出来なかった試合以降は急降下、9月にリーグワーストタイの102失点、10月はリーグワーストの. 220と打てず、急失速した。また先発投手を菅野、メルセデス、山口、高橋、戸郷の5人体制にした9月・10月で先発投手の成績は6勝20敗と勝利数と敗戦数どちらも断トツのリーグワーストで、球団史上初めて9月・10月で3度の5連敗以上を喫した上、9月2日には最大で15あった勝ち越しが僅か35試合というセ・リーグどころか、戦後最も早いペースでゼロになってしまい[注 27]、10月12日には今シーズンワーストの7連敗となり、リーグ3連覇が消えた。結局、シーズンは61勝62敗20分けと3年ぶりのシーズン負け越しが決まった。導入された2007年以降では史上最少の勝ち数でクライマックスシリーズ進出を決めた。(同年は延長戦なしの9回打ち切りルールだった為、1978年を超える球団史上最多のシーズン20分けとなった。)2年ぶりに開幕したクライマックスシリーズでは、2位の阪神に2戦とも4点を奪ってファイナルステージ進出を決めた。しかし、セ・リーグ優勝のヤクルトとのファイナルステージでは2年連続ホームランと打点の2冠王に輝いた岡本の左脇腹痛による不在の影響等で、3試合で2点(出場したファイナルステージでは史上最少得点)の致命的な得点力不足が祟り、結局3敗1分けで敗退した。 西武がパ・リーグで所沢移転初年度の1979年以来42年ぶりのリーグ最下位を経験したため、巨人は2005年に創設した楽天を除く現存11球団の中で「今現在21世紀に一度もリーグ最下位を経験していない唯一の球団」となった。 2022年 開幕戦で中日のエース・大野雄大から4点を奪い、逆転勝ち。球団史上最多となる8度目の開幕投手を務めた菅野が別所毅彦、斎藤雅樹を抜いて球団新記録の開幕戦5勝目を挙げたのに続き、新外国人のグレゴリー・ポランコがいきなり3安打の猛打賞を記録、球団の新外国人選手が開幕戦で3安打を放ったのは1980年のロイ・ホワイト以来42年ぶり2人目でその3本目が決勝打となった為、開幕戦で猛打賞と勝利打点を放ったのは球団の新人、新外国人史上初である。また球団史上初の下の名前のみを登録名にした日本人選手となったドラフト1位ルーキーの大勢が開幕戦でセーブを挙げ、球団とセ・リーグ新人史上初の開幕戦セーブを達成した[注 28]のに続き、翌日もセーブを挙げた為、新人が開幕から2試合連続でセーブを達成したのはプロ野球史上初。3戦目こそ落とすものの、ヤクルトと阪神という前年の上位2チームに何れもスウィープに成功して6連勝を飾り9試合終了時点で8勝1敗は川上が指揮を執った1963年以来59年ぶり。その間に2019年のドラフト1位だった堀田賢慎が3月31日のヤクルト戦、2020年の育成ドラフト7位だった戸田懐生が4月2日の阪神戦、2021年ドラフト3位でルーキーの赤星優志がその翌日(4月3日)に何れもプロ初勝利を達成し、開幕から9試合でプロ初勝利投手が3人生まれたのは球団史上初である。なお、大勢は4月6日の広島戦で7セーブ目を挙げ、7試合連続セーブは球団の新人記録であると共に1978年の角三男と並んで球団の新人タイ記録に並び、4月13日に球団史上初めて沖縄での主催ゲームとなった沖縄セルラースタジアム那覇でのDeNA戦で8セーブ目を挙げ球団新人史上最多のセーブ記録を44年ぶりに更新した。また4月19日の広島戦では公式戦21試合目で10セーブ目を挙げ2013年の西村健太朗(公式戦23試合目で10セーブ)を抜いて球団史上最速で2桁セーブを達成したのに加え、6月4日のロッテ戦も2-1の状況で9回に登板して早くも60試合目で20セーブ目を挙げ、1990年に入団した与田剛の68試合を抜いて新人史上最速となった[注 29]。その4月19日には坂本が第2打席で先制のホームランを放ったのに続き、第3打席でレフト前ヒットで出塁し969本だった阿部作戦兼ディフェンスチーフコーチを抜き、東京ドームの通算安打数で最多となる970本目のヒットを放ち、岡本は5月29日の日本ハム戦で通算150号を日本人選手としては最速となる634試合目で達成した。球団全体でも、ウォーレン・クロマティの612試合に次ぐ早さだった。4月28日には最大で勝ち越しを11作りながらキャプテンの坂本が4月30日の阪神戦で途中交代し5月1日に右膝内側側副靱帯損傷で、「1番・セカンド」として当時リーグ最多の44安打と打線を引っ張っていた吉川が5月4日の広島戦で黒原拓未に左肩甲骨付近へのデッドボールを受けて肩甲骨の骨挫傷で5月6日にそれぞれ出場選手登録を抹消されたのも重なり、途中で二遊間のレギュラーを失ったゴールデンウィークは1勝8敗と急失速で首位から陥落すると、交流戦こそ8勝10敗と2つの負け越しに留まりながらヤクルトが14勝4敗と驚異的な成績で勝ちを積み重ねたのも重なった事から、交流戦開始前は1ゲーム差で追走していたのが6月12日の交流戦終了時点で7ゲーム差、6月26日のヤクルト戦で10-11で競り負けた事で6月27日だった2003年を抜き、2リーグ制では球団史上最速で自力優勝が消滅した。7月15日からの広島との3連戦では、それぞれ磯村嘉孝(15日)、長野(16日)、堂林翔太(17日)、その翌18日のヤクルト戦でもホセ・オスナと、合わせて4試合連続で満塁ホームランを打たれ、プロ野球史上ワースト、同一カード3連戦3戦連続満塁弾被弾及び、4試合連続満塁弾被弾という記録を樹立してしまった[85][86]。また8月5日からのヤクルトとの3連戦中に初戦で戸田がオスナに、2日後の3戦目でマット・シューメーカーがドミンゴ・サンタナにそれぞれ満塁弾を打たれているので、2004年の7本を超えて同一シーズンで満塁弾を打たれたのが8本目と球団史上最多(ヤクルトに5本も満塁弾を打たれているので、中日に4本打たれた2006年を超えて同一球団に許した満塁弾も球団史上最多である)[注 30]。8月13日の広島戦では直江大輔が、9月23日の中日戦で井上温大が8人目のプロ初勝利。宮國、星野真澄、高木京介、田原、小山雄輝、笠原将生がプロ初勝利を挙げた2012年を抜いて球団史上最多となったが、最多奪三振のタイトルを獲得した戸郷と最終戦にあたる10月2日のDeNA戦で10勝を挙げた菅野以外が続かず、メルセデスも6月4日のロッテ戦で5勝目を挙げたもののその日を最後に11試合勝ちがなく6連敗で5勝7敗。前年27試合に登板しチーム最多の11勝を挙げた高橋優貴が10試合の登板で1勝どまり、前年に日本球界に復帰した山口も4月8日以降は登板なしと先発陣が振るわず防御率は3.
5ゲームの首位で折り返し[39]。8月9日に優勝へのマジックナンバー39が点灯[40]。9月7日に7年連続でクライマックスシリーズ進出が決定[41]。9月22日の対広島戦(東京ドーム)の試合開始直後に2位の阪神がヤクルトに6対7で敗れたため、この時点で巨人の2年連続35度目のセ・リーグ優勝が決定した[42]。開幕戦以降、6月に阪神が一時首位に立った以外は、首位を譲らなかった[43]。広島とのクライマックスシリーズファイナルステージは3連勝で日本シリーズ進出を決めた[44]。迎えた東北楽天ゴールデンイーグルスとの日本シリーズでは第5戦までに2勝3敗で王手をかけられたものの、第6戦でシーズンから無敗の田中将大にこの年初の黒星をつけタイに持ち込むが[45]、第7戦で敗れて3勝4敗で敗退し[46]、楽天が球団創設して初の日本一の立会球団となった。この年のオフにFAで西武の片岡治大と広島の大竹寛、中日を自由契約となった井端弘和を獲得した。 2014年 球団創設80周年を迎えた。4月19日、キューバの国内リーグ「セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル」の中心選手であるフレデリク・セペダと契約[47]。同時に球団はセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルとの友好関係を結ぶことを発表した[48]。シーズン序盤より投打ともに勢いに乗りきれず、交流戦に入る段階では首位の広島とは4.
5ゲーム差の3位だったが、交流戦ではソフトバンクと優勝を争い、交流戦の最終戦でのソフトバンクとの直接対決に勝利し、2年ぶりに優勝を達成。6月を11勝5敗とし、6月8日に首位に立つと以降は首位から陥落することはなかった。8月には13勝13敗で一時は2位の阪神と0. 5ゲーム差となるが、9月に入り、4日にはこの年初めて優勝へのマジックナンバー22が点灯、翌日に消滅したものの、11日には16で再点灯。9月14日に石川県立野球場で行われた引退試合を最後に石川ミリオンスターズに所属していた木田優夫が現役を引退したため、後楽園球場時代に在籍した選手が全員引退した。20日の対ヤクルト戦に勝利し、クライマックスシリーズ進出を決め、優勝へのマジックナンバーを2とした9月26日の対DeNA戦に6対3で勝利し、マジック対象チームの広島が阪神に敗れたため、3年連続通算36度目のセ・リーグ優勝が決定した[49]。なお、打線では規定打席に到達しての3割打者がおらず、チーム打率はリーグでブービーの. 257(厳密には. 25668)と平成に入ってリーグ優勝を果たしたシーズンとしては1996年の. 25269、2012年の. 25643に次ぐ低い水準だった[注 21]。2位の阪神とのCSファイナルステージでは菅野と大竹を欠いた状態で臨んだ事が響いてCS史上初の4連敗で敗退し、日本シリーズ進出を逃した[50]。同年オフ、東京ヤクルトスワローズから相川亮二[51]、横浜DeNAベイスターズから金城龍彦がFA権を行使して入団した。さらに、テキサス・レンジャーズからマイルズ・マイコラス、アーロン・ポレダを獲得した。 2015年 序盤はDeNAと首位を争う展開となった。4月15日に監督の原がB型インフルエンザウイルスに感染し、当面自宅で静養となり監督代行をヘッドコーチの川相が務めることが発表された[52]。約1週間の休養を経て、4月21日の広島戦で復帰[53]。4月末、阿部、坂本、亀井が故障離脱、レイズから自由契約になっていたホアン・フランシスコを獲得した。交流戦では4年ぶりに負け越し11位に終わった[54]。6月後半に首位の座を阪神に明け渡すも、7月にはすぐに首位に復帰。しかし、前半戦最後のカードの対DeNA戦に3連敗を喫し、首位から陥落、前半戦を2位で通過した[55]。7月18日、ニューヨーク・メッツ3Aからアレックス・カステヤーノスを獲得した。8月5日の対ヤクルト戦(神宮)において、公式戦通算10, 000試合を達成した[56]。阪神、オリックス、中日に次いでプロ野球4球団目となった[57]。後半戦は阪神・ヤクルトとの優勝を競ったが、カステヤーノスらを補強しても相変わらず打線が不振で、首位に立つチャンスを幾度となく逃し、終盤はヤクルトや阪神の後塵を拝する事になる。9月27日に東京ドームでのヤクルト戦を1-2で落としてヤクルトの優勝マジック3を点灯させた事が決定打となり、10月2日にヤクルトが優勝した事で、リーグ4連覇への挑戦は失敗に終わり、レギュラーシーズンは2位で終えた。CS開幕前の10月5日に所属選手の野球賭博への関与を告発した[58]。クライマックスシリーズのファーストステージはシーズン3位の阪神と対戦、2勝1敗で勝利する。シーズン1位のヤクルトとのファイナルステージでは初戦こそキャプテン・坂本の2ランホームランなどもあり、勝利を挙げたものの、2戦目以降は勝ち頭のマイコラス・菅野で落とし、打線も2戦目以降は規定打席越えの3割打者が1人もいなかった事を象徴する貧打や26イニング連続無得点などもあり、3連敗した[59]。最終的には1勝4敗(アドバンテージ1敗含む)で、2年連続で日本シリーズ進出を逃した。なお、巨人が2年連続でCSファイナルステージで敗退したのはこれが初となる。そしてCS終了後に原は辞任を表明[60]、10月19日、記者会見で原が監督退任を正式表明し、第2次体制の10年、第1次体制と合わせて12年間の監督生活にピリオドを打った[61]。次期監督として球団OBで野球評論家の江川卓やヘッドコーチの川相昌弘[62]、打撃コーチ兼外野手の高橋由伸[63]などが候補と報道された。10月22日、2016年シーズンから、一軍、二軍のほかに育成選手を中心とした三軍を編成することを発表[64]。10月23日、高橋由伸の新監督就任および2015年限りの現役引退が発表された[65]。同時に井端弘和と金城龍彦が引退し、それぞれ一軍内野守備・走塁コーチ、三軍打撃コーチに就任した。10月26日、高橋の監督就任会見が行われた。3年契約で背番号は現役時代と同じ「24」[66]。また、前監督の原辰徳が2016年1月1日付で、球団特別顧問に就任することが決定[67]。11月23日に行われたジャイアンツ・ファンフェスタ2015において高橋由伸の現役引退および監督就任セレモニーが行われた[68]。シーズンオフには埼玉西武ライオンズから脇谷亮太が古巣に復帰、長打復活のためにニューヨーク・ヤンキースから4番候補のギャレット・ジョーンズ(登録名:ギャレット)、千葉ロッテマリーンズから自由契約となったルイス・クルーズを獲得し、打線強化を図った。 高橋監督時代[編集] 2016年 チームは開幕3連戦(VSヤクルト)において3連勝スタートを切った。なお、巨人が新監督で開幕3連戦を3連勝するのは、1981年の藤田元司以来35年ぶり[69]。序盤は阪神・広島と首位争いを繰り広げ、4月は15勝10敗3分けと一歩先を行く展開が続いていたが、前年同様打撃陣が低調で、月が替わった5月は21日の中日戦から7連敗で急失速した。特に代打での打率と失策率が12球団最下位だった事や、中継ぎ陣が打たれる試合が多く、負けが込む様になった。交流戦は五分で終えるも、6月10日のソフトバンク戦で同一カード3連敗を喫し、借金生活に入ったのと同時期に広島の快進撃が始まると、首位を奪われてしまう。その後、首位広島を一時4.
5ゲーム差で2位につけていた阪神の自力優勝を消滅させ、9月16日に残り46試合で達成した2013年を抜く、原政権最速となる残り48試合で優勝へのマジックナンバー38が両リーグ最速で点灯。菅野が9月29日の広島戦で開幕投手の12連勝を達成し、1938年春にスタルヒンが達成した球団記録を塗り替えたのに続き、10月6日のDeNA戦では2004年に岩隈(近鉄)が達成した開幕投手の連勝記録を抜き開幕投手の13連勝を達成。その後マジックは一度も消滅させる事はなく、亀井、中川、大竹、増田大輝が9月の終盤から10月にかけて揃って離脱したのが理由[注 24]で終盤の戦いに苦戦を強いられたが、10月30日の対ヤクルト戦終了前にマジック対象チームである2位阪神が引き分け、3位中日が敗戦した為、2年連続38回目のリーグ優勝が確定した[80]。11月8日に坂本がヤクルトとの東京ドーム最終戦で第1打席に2塁打を放ち、川上、長嶋、王、柴田、昨年引退した阿部以来球団生え抜きで史上6人目[注 25]、31歳11か月と榎本喜八に次いでプロ野球史上2番目の若さで、球団と右打者史上最年少での2000本安打を達成した。タイトルでは菅野が最多勝と最高勝率、岡本が本塁打王と打点王を獲得。球団では2010年のラミレス以来10年ぶり、日本人選手では2002年の松井以来18年ぶり、さらに日本人右打者に限ると1963年の長嶋以来57年ぶりの獲得である。新型コロナウイルスの影響により約3か月遅れの開幕戦となった関係で、クライマックスシリーズは開催されず、自動的に日本シリーズへ進出。開催時期に本拠地である東京ドームが都市対抗野球大会で使用される為、主催試合は京セラドーム大阪で2年連続でソフトバンクとの実施となった[81]。しかし、10月に月間22勝のプロ野球新記録を達成したソフトバンクとは対照的に、10月以降は13勝18敗4分け[注 26]と10月10日には最大で30あった勝ち越しが終わってみれば22まで減ってしまい、5連敗中で迎えた10月30日に優勝決定となった。[82]この不調は、そのまま日本シリーズに入ってからも続いてしまい、いずれの試合も3回までに失点して投手陣が崩れ、打線も4点しか奪えずに日本シリーズ史上初の2年連続ストレート4連敗となり、最低打率、最少得点、最小安打の日本シリーズワースト記録更新、2013年楽天戦からの同一監督(原監督)による9連敗の球団ワースト記録更新(連敗数は球団ワーストタイ)という屈辱的な数々の不名誉な記録を更新し、敗退した[83]。また、日本一を8年以上逸は球団ワーストとなり、日本シリーズを通して1イニングも0-0以外の同点に持っていく事すら出来ずにストレート4連敗で敗退したのも史上初である。 2021年 4月16日のDeNA戦で坂本がショートとして1778試合目の出場を果たし、この日出場がなかったロッテの鳥谷が持つ遊撃手通算最多出場記録を更新、6月1日の西武戦では、岡本が球団史上7人目となる先発4番としての通算100号ホームランを達成した。24歳10カ月と、それまでの長嶋が持っていた27歳1カ月を大きく上回る球団史上最年少で達成した。その一方で、DeNAからFAで獲得した梶谷隆幸も度重なる故障で離脱した他、同じくDeNAからFAで獲得した井納翔一も3月31日の中日戦で1回0/3で5安打4失点とピリッとせず、以降中継ぎで登板するも5試合で防御率14.
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40と全く戦力にならず、新助っ人で獲得したエリック・テームズがデビュー戦となった4月27日のヤクルト戦で右足のアキレス腱を断裂する重傷を負い8月23日に、ジャスティン・スモークも新型コロナウィルスで家族が来日出来ないストレス[84]を抱えて6月17日に何れも自由契約になる等新戦力が揃って離脱し、シーズン途中に2年ぶりに復帰した山口もわずか2勝に終わり、暴力事件の謹慎中に日本ハムからトレードで獲得した中田翔が不振、菅野や丸が不調及びコンディション不良で二軍落ちするなど、悪いチーム状態が響き、勢いに乗れず交流戦明けには首位の阪神と8ゲーム差つけられるも一時は持ち直した。8月29日の中日戦に勝利して50勝37敗12引き分けで勝率.
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227 1961年) シーズン最多併殺 129(2017年) 1試合記録 ゲーム最多得点 26得点(1946年8月31日対中部日本軍、1948年10月16日対大陽ロビンス) ゲーム最多安打 27本(1948年10月16日対大陽ロビンス) ゲーム最多二塁打 11本(1948年10月16日対大陽ロビンス、日本プロ野球記録) ゲーム最多三塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス、1957年8月27日対大洋ホエールズ) ゲーム最多本塁打 8本(1984年7月4日対ヤクルトスワローズ、1984年9月4日対中日ドラゴンズ、1985年6月28日対阪神タイガース) ゲーム最多塁打 59本(1948年10月16日対大陽ロビンス) ゲーム最多打点 25打点(1948年10月16日対大陽ロビンス) ゲーム最多盗塁 5盗塁(1943年4月11日対西鉄軍、1951年9月12日対国鉄スワローズ) ゲーム最多犠打 4犠打(1952年2度、1966年1度、1987年1度) ゲーム最多犠飛 4犠飛(1939年10月8日・日本プロ野球記録) ゲーム最多四死球 16個(1946年8月31日対中部日本軍) ゲーム最多三振 17三振(2004年8月1日対阪神タイガース) 1イニング記録 イニング最多得点 13得点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回) イニング最多安打 10本(1941年5月11日対阪急軍4回、1951年8月8日対広島カープ7回) イニング最多2塁打 6本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回・日本プロ野球記録) イニング最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス3回・日本プロ野球記録) イニング最多本塁打 4本(1985年9月9日対横浜大洋ホエールズ4回、1987年5月12日対阪神タイガース7回、1999年7月31日対広島東洋カープ1回、2000年6月21日対中日ドラゴンズ7回) イニング最多塁打 18本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回) イニング最多打点 13打点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回) イニング最多盗塁 5盗塁(1937年5月16日対名古屋金鯱軍1回) イニング最多犠打 3犠打(多数) イニング最多犠飛 2犠飛(多数) イニング最多四死球 8個(1959年10月20日対中日ドラゴンズ5回) イニング最多三振 4三振(2004年8月1日対阪神タイガース2回) 連続記録 最多連続得点 10得点(2003年4月27日対横浜ベイスターズ8回) 最多連続試合得点 174試合(1980年8月4日 - 1981年9月20日) 最多連続イニング無得点 31イニング(1985年6月5日対阪神タイガース4回 - 6月8日対中日ドラゴンズ7回) 最多連続打席安打 9打席(1996年7月9日対広島東洋カープ2回・日本記録) 最多連続打数安打 9打数(1954年9月29日対広島カープ1回、1四球を挟む) 最多連続イニング安打 21イニング(1985年7月10日対中日ドラゴンズ6回 - 7月16日対横浜大洋ホエールズ1回、日本記録) 最多連続試合本塁打 33試合(2004年4月2日 - 5月12日、開幕からの連続記録) 最多連続イニング本塁打 6イニング(1967年10月10日対広島カープ2回 - 7回) 最多連続本塁打 3人(通算5度) 最多連続打数本塁打 4人(1四球を挟む) 最多連続四死球 5人(1963年5月3日対国鉄スワローズ2回、1964年4月7日対国鉄スワローズ9回) 最多連続試合安打 30試合 (1976年) 最多連続試合盗塁 16試合(1951年7月29日 - 8月9日) チーム投手記録[編集] シーズン シーズン最多被安打 1427本(2005年) シーズン最多被本塁打 193本(2004年) シーズン最多与四死球 529個(1978年) シーズン最多奪三振 1123個(2003年) シーズン最多失点 737点(2005年) シーズン最高防御率 1.
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